来し方を辿る旅

ここ数年、自分の知らない自分のルーツをどこまで辿れるかに興味が有る。
家としては5代前に近所の「本家」から「分家」してできたのが我が家の系統だということぐらいは(家族構成等含めて)判っているが、それ以前の家や地域(村・郷)の状況はどうなのかが、奈良盆地のど真ん中(やや東だが)であるにもかかわらずよくわかっていないなぁ、と思ったのがきっかけだった。
まぁ、ね、故郷を離れて20年、それ以上になると「あぁ、奈良ですか、いいですよねぇ」という出身地披露の後に繰り返されるアレに、(そうは言ってもうちのあたりはなぁ)という負い目?と(でもなんかないのか?)みたいな疑問が積み重なっての、という。
それで、ちょこちょこと検索してわかるぐらいの範囲では調べてきたんだが、いろんな脱線もありもう少し広い「奈良の中近世はどうだったか」というようなところまで興味範囲が広がってきたので、さすがに少し絞る必要が出てきたなぁ、じゃぁ、さて、どうするか、というのが現状。
具体的な話は断片がたくさんあって整理する必要があるのでおいおいやるとして、ウチのあたりでは近世から近代への「断層」にやや特殊な事情があるのだなぁ、と思うようになったのでそれを。(このあたりはいろんな文献や資料のかじり読みなのであくまで仮説。出発点としてこんなことを考えた記録として)
 
1)一般的には江戸→明治の統治機構の変化
これはまぁ、廃藩置県とか廃仏毀釈とか社会の上部と下部(の全部ではないが)の両方が変わった話なので当然そうだよなぁ、というお話。
2)奈良(大和)の特殊性として「近世における統治の複雑性」
近代まで、奈良は寺院の力が強く云々、というのは日本史をかじった人なら当然の話だけれども、時の幕府の権力が充分に及ばず、「寺社による自治的統治」の影響が強かった大和では(廃仏毀釈の激しさも相まって)近代統治への以降に伴う混乱?が(他の地域に比べて)大きかった可能性がある。
3)旧山辺郡(天理市周辺)の特殊性としての「天理教」
天理教は幕末に発祥し、明治〜大正〜昭和と広がっていくのだが、近隣にあった大寺「内山永久寺」が廃仏毀釈で伽藍を全く失うレベルの(現在はほぼ田畑に帰ってしまっている)破壊と相まって、地域社会の中で記憶の断絶を起こしたのではないかという気がしている。
通常であれば廃仏毀釈の結果として宗教的には神社あるいは神道への傾斜が起こり、という荒っぽいストーリーは考え付くのだが(ここは未検証)、この地域ではそれを丸ごと天理教が抱えたために、残った神社神宮も地域の鎮守以上の域を出なかったのが地域の歴史を語るという上ではマイナスに働いでいるのではないかということ。
 
…そうは言っても地域が天理教一色かというとそうでもなく、石上神宮の例大祭に合わせて地車を曳く、といったようなことは少なくとも20年前までは残っていたので全てがそうではないので、「代々やってたからそんなもの」という、親世代では気にも留めないもろもろにどこまで歴史的な再定義あるいは解釈を引っ張り出せるかが鍵だよなぁ、と思っていたりするが。
 
ということで、何かメモれるぐらいにまとめられれば書き留めたいなぁ、と思う今日この頃。
(社会学をちゃんとやっておけばよかった、と今更ながら思っているw)
 
 

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